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「長崎天正少年大航海時代」Oil on canvas, 90 cm x 130 cm, 2018年
ここ数年、人や場から立ち昇ってくる「気」や「空気」という、目にはみえないけれど確かにあるものをSpiritsとして表現し ています。今回は、初めて訪れた長崎からインスピレーションを得て生まれてきた新作油絵8点、澳門がテーマの立体2点、新作パーソナルオブジェ100点によるインスタレーションを展開いたします。400年以上も前に長崎から澳門やゴアを経てロー マへと命懸けの大航海をし世界を見てきた天正少年使節「クアトロ・ラガッツイ」へ想いを馳せ生まれてきた精霊たちです。
"Rebirth- 澳門 (裏面)"
立体作品(コットンキャンパスに アクリル絵具、グラス ビーズ ), 145 x 71 x 1.5 cm, 2015年/2018年
ギャラリー砂翁
ギャラリー砂翁
H.P.France Window Gallery 丸の内
なぜ私が長崎大航海時代の天正少年使節のことを描いたのか?
それは、今年の冬、黒い雲が空を覆う雨の島原雲仙から長崎の旅を始めたからだろう。 島原城で南蛮貿易や隠れキリシタンの美術品に目を奪われたあと、キリシタンの殉教の地である雲仙地獄を歩いた。もうもうと白い煙をあげ地の底から湧き出る高温の温泉は、その昔キリシタンへの残虐な拷問に使われ、多くのキリシタンたちがそこで惨殺されたことを知った。その後に訪れた長崎市内は、いくつかの文化が入り混じった何処にもない異国の空気があり、しかしなぜか不思議と私には懐かしかった。
「意識」や「いのち」や「空気」という、目には見えないものを私は描いてきた。人がまとっている空気には、その人が生きてきた時間やその人の在り方がどうしょうもなく出てきてしまう。人だけでなく、土地にも家にも、人が集まっている場にも、そこにしかない空気がある。 長崎で吸った空気を描きたくなり、歴史を調べようと図書館へ行った。そこで偶然にも目に飛び込んできたのが、若桑みどりさん著の『クアトロ・ラガッツイー天正少年使節と世界帝国』(集英社2003年)という分厚い本であった。「なぜ美術史学者であった若桑さんが7年もの歳月をかけ天正少年使節のことを書いたのだろう?」と、不思議に思いながら序章を読んだら一気に引きこまれた。
島原雲仙長崎への旅と若桑さんの本との出会いが、私をこのシリーズへと導いてくれた。
1961年に横浜から船でローマへと向かった若桑さんは、少年使節の中にご自分を見たそうだ。それを読み胸を熱くさせた私も、若桑さんが書いた少年使節の姿に自分を見たのである。 私と若桑さんと少年使節たちをつなぐ糸、それは、時代と状況こそ違えど、私たちは、それぞれの時代に志を抱き日本から見知らぬ国へと旅立った若者たちであっ た、ということだ。しかし、外国での経験を経て変化した意識をまとい帰ってきた若者たちにとってこの国は決して生きやすい場所ではなかった。
私は1977年に女子校を卒業した年に、アルバイトで貯めた資金で自力でパリへと旅立った。両親は、もう二度と娘に会えないのかもしれない、という覚悟で私を送りだしたのだと、後で知った。世界中どこへ行ってもスマホさえあれば 何でも探せ家族や友人とも簡単に連絡がとれる今の時代の人たちには、想像もしたくないような命懸けの旅であった。
嵐と海賊の危険にさらされた長い船旅の最中、少年たちの中には輝く信仰の光があった。そして、私にもその光はあった。私の場合それは信仰の光ではなかったが、自分の核を信じ未知なる世界へと漕ぎ出す勇気を与えてくれた心の中にある一筋の光だった。その光を抱いて異国へ向かい、そこで、私は自分が生まれ育った土地以外の人々と接し、自分という”個”と初めて出会った。自分の肌が黄色いということを、すなわち東アジアの人間だというこを、若桑さんは船で同室だった中国の娘を通して知り、私はパリで招待されたディナーテーブルで知った。
自分とは異なる人種や異なる文化の中で、私たちは初めて自分自身と出逢う。生まれながらにくっついてきた国籍や肌の色、身に付けた生活様式、親や社会から教え込まれた常識やものの見方やマナーの違いを知る。というか、知らされる。少女だった私はパリに自分を順応させ意識を変化させることで生き延びた。一度変化してしまった意識も、見知らぬ外国で見たこと知ったことも、その土地の人たちと関わりながら生活をし絵を描いた日々の記憶も、いくら年をとっても失わない。それが私の原点になったからだ。
「天正少年使節」に私は自分を見る。特に、棄教をしたとされているが謎を残したままの千々石ミゲルと、逆さ穴吊りの拷問に5日間耐え抜き殉教した中浦ジュリアンに、私は自分を見る。
2018年 畑早苗