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いのちをまもれシリーズ
私は岩神銀座通り商店街で生まれ、 1977年にパリへ行くまでの18年間をそこで暮らし た。高度経済成長 の真っ只中では、田舎の小さな商店街にも ”銀座”という呼び名をつけて しまうほどの勢いがあったのだろう。 TVからはジェリービーンズのようにポップでハッ ピーなアメリカのホームドラマやアニメが流れ、それが流 れている間だけ、戦争なんて遥 か遠い昔の出来事と感じられた。しかし60年代の日本はまだどっぷり戦後 で、その痛み や重さを私たち子供は暮らしの中で身に沁みさせながら育ったのだと思う。暗く不明瞭で 恐ろ しいその影を原風景の中に昭和の子供たちは持っている。同時代性、コンテンポラ リーとは、それぞれが生まれ育った 時代を背負いながら今ここに立つということなのだ と私は思う。
人や車が行き交う岩神銀座通りと民家が立ち並ぶ裏通りの”表と裏”のどちらにも属し、表 からも裏からも出入 りできたのが、私が育った住居を兼ねた商店だった。夕方になる と、表通りには円盤のように巨大な街頭が灯 り、沢山の買い物客で賑わった。それとは 反対に、店の奥にある座敷から隣近所の子供達が遊ぶ地続きの裏庭 に出て、細い路地を 抜け、神社へと続く裏通りはうすら寂しく、犬の鳴き声とともに四方八方からカラカラカ ラカラと糸を巻く音が鳴り響いていた。その音が、私を異界へと誘い込みそうで怖くて両 耳を塞ぎ走って逃 げた。昔は、町のそこら中に異界への入り口があった。妖怪がいる、 鬼がいる、閻魔様がいる、神さまも亡くなっ た人たちもいる、あちらの世界。見えない けど、確かにその世界はあると、子供の頃から私は信じていた。
うちのお婆さんは毎晩のように怖い昔話を私と双子の妹弟にしてくれた。舌にこんにゃく を巻きつけ子供 を脅す継母の話や、狐や狸に化かされ山道をぐるぐる回り家に帰れなく なった話など、何度聞いてもまた聞きたくなるような魅惑的なお婆さんの昔話。その中に もあちらの世界や異界の感覚が存在していた。昭和 の時代に前橋の街で生まれ育ち良 かったことは、いのちへの畏怖の念にもつながるその感覚を体で学んだこと である。 親が忙しいのをいいことに、商店街の子供たちは毎日、暗くなるまで遊び呆けた。しかし、 遊びが終わると、子供の頃から私の中にはどうにも言葉では言い現せないキモチが湧き上 がってきた。夜になると、隣に母や双子の妹と弟が寝ていても、私はどうしようもなく心 細くなった。その、なんとも解決がつかない、泣きたいような怖いようなやりきれない、 いたたまれないキモチ。その源を辿っていくと、子供時代の鮮明な記憶に行き着く。 ある日、誕 生日に父に買ってもらった陶器の犬を私はうっかり 2階の窓から落としてし まったのだ。チャコと名付け大切にして いたその犬が地面に叩きつけられ粉々になる様 を見た瞬間、私は何かとてつもなく重大なことを、この世の 掟のようなことを悟ってし まった。いま思えば、それは「無常」というものだったのかもしれない。この世 に永遠 などというものはないということ。
小学校3年の夏、2歳上の兄が高熱を出し腎臓病で長期の入院をした。家の中は寒々とし、 両親は怒りっぽくなり、食卓は真っ暗になった。毎朝、私は、打たれ続けたボクサーのよ うに目を腫らかせて、行きたくない学校へ一人で通った。夜になり布団の中にはいると、 恐ろしい考えが頭の中をぐるぐる回った。そんなある日、陶器製のペットの犬が木っ端微 塵に砕け死んだ。
それからしばらくして、私は絵を描くようになった。4年の時の担任の先生が見せてくれ たゴッホの画集が、芸術へ の扉を開けてくれたのだ。その絵を見てるとキモチが強くな り、嬉しくなり、力が湧いてきた。ずっと見ていたい。ゴッホは私の守り神になった。先 生は『夜鷹の星』や『なめとこ山の熊』など宮沢賢治の物語も語ってきかせ、私たちはイ メージを膨らませて一番心に残る場面を画用紙に描いた。型破りの破天荒な先生だったが、 その先生のお陰で私は絵が好きになった。
私は母に油絵の道具を買ってもらい、ゴッホのような画家になることを夢見て、独学で油 絵を描きはじめた。 10歳の時だった。「将来、この子が絵の道に進みたいと言ったら是非 進ませてあげてください。」と、六年の時の美術の先生が母に言ったそうだ。母は、その 言葉を誰がなんと言おうと信じて信じて信じ続けた。高校時代に無謀にも自力でパリへ行 くことを計画しバイトに明け暮れた時も、その言葉は母の中で生き続け、担任や父の反対 の嵐の中、私のパリ行きを一人で賛成してくれた。 しかし母は、私が外国でどうやって食 べていくかまでは考えなかった。パリへ行く時も、ニューヨークへ行く時も、「早苗ちゃ んなら絶対できるよ!」と言うだけであった。認知症になった現在も母は同じ言葉を私に 言う。母の、その根拠のない確信はやがて言霊となり、私の人生を通して、自分が行きた い道へと突き進む力を私に与え続けている。
「描く」という、自分の中心に向かい鎮座する時間を子供の頃に見つけていなかったら、
私はどうなって いたのだろう。生き延びるために私は絵を描いた。女子校の先輩から紹
介された坂口安吾の『堕落論』にあ る”生きよ堕ちよ ”という生命の思想は私の生涯の支え
となった。ネットがない時代だからこそ触覚を伸ばし、 生きにくい現実からの出口を探
した。安吾の思想、岡本太郎の芸術生命論、そして「女の時代」と謳うテレ ビCMや
ファッション雑誌が田舎街に住む私の意識をぐいぐいと引き上げパリへと押し出した。
前橋の街のあちこちに、幼い自分の姿を私は見る。情熱の塊のような少女時代の自分の
姿とともに、無鉄砲な私を信じ応援し続けてくれた母と父、祖母、妹、兄弟、文通をして
いた歌人、裏のおばさん、幼馴染みの友達、今はもう店もまばらな岩神銀座通り商店街の、
私を可愛がってくれた先代たちの姿を、私は見る。
高畑早苗
岩神小学校
前橋市立第三中学校卒業